仏蘭西紀行

3 フランスのアンパン

 今まで走っていた道路は高架だった。車はすぐにその高架を降りた。そのとき、ハッと気が付いたことがあった。すると案の定である。下の道と合流する地点で後ろを振り返ると「Autoroute」の標識。そこはいわゆる自動車道路。そうだったのだ。数々のクラクションは決して「頑張れよ!」ではなく、「どこ走っとんじゃ!危ないやないか!」だったのだ。巡航速度が速いのも高速道路だから当たり前。挙句の果てにお巡りさんの登場。

 きっと彼はボクに向かってこういっていたに違いない、「コラッ!おまえ、どこ走っとんねん!ボケ!」と。なのにボクときたら「ボクは日本人です」などと全く頓珍漢な返事をしてしまった。ホントに会話になっていない。やれやれ。知らなかったとはいえ、とんでもないことをしでかしてしまったもんだ。無知ゆえの強さというのだろうか。しかし、それは一歩間違えば命さえ落としかねない。ある意味では命をはった強さである。また、そういう意味では無知というのは強い。世の中の恐怖なんてすべて、どうなるか想像がつく、言い換えれば知っているが故の恐怖なのだ。

 しばらく走って車は止まった。相変わらずのゼスチャーで降りろとの指示。ホッ。胸をなでおろす。フランスへ来ていきなり、一泊二日、留置所ご招待なんてことだけはゴメンだ。お巡りさんは道の前方をキッと指差し「Paris!」と一言。どうやらここをまっすぐ行けばパリに辿り着けるようだ。ボクは「Merci beaucoup」と丁寧に礼を述べ、再び走り出した。そこからはすんなり行けたかと言うと、世の中はそんなに甘くはないのだ。

 途中、お腹がすいたのでパン屋を見つけた。パンとミルクを買おうと思った。パン屋くらいしか入り方、また買い方すらわからない。などとパン屋を見くびっていたのが良くなかった。たかだかパンを買うだけで、またも神様はボクに難を与えて下さったのかもしれない。もし神様がわざとそうしたのであれば、ボクは神様を憎んだに違いないが、どう考えてもボクに責任があるように思えたので、とりあえず誰をも憎まないことにした。

 店に入り、ボクはバケット(いわゆるフランスパン)を指差し、一応フランス語もどきで「セ、セ」(それ、それ、それちょーだい)とお姉さんに言った。するとお姉さんはボクが日本人であることに気付いたのか、「アンパンもあるよ」ってなことを言ってきた。なんていい人なんだろう。また、アンパンはこんなにも遠く離れた国でも作られているのかと感心したりもした。でも、ボクが欲しかったのはアンパンではなくバケットだった。手を横に振って再びバケットを指差していった。「セ、セ」。するとお姉さんはまたも「アンパン?」。(なんやこいつ、おちょくっとんのか?)と思いながら「ちゃうがな!それやそれ!」としつこくバケットを指差した。お姉さんも意地になってか、きつい口調で「アンパン!?」と三度、返してきたのだった。

 ボクは負けた。首を縦に振った。何もここでバケットを食べることができなくったって世界が終わるわけでもない。ボクはお腹がすいていたのだ。アンパンだって全くかまいやしない。

 しかし、不思議なことにお姉さんはバケットを1本紙に包んでくれた。?。どうも狐につままれたようだ。だけどとにかくボクは念願のバケットを手に入れることができた。ミルクはもう諦めるしかない。だってバケットひとつ買うのだってこれだけ苦労したのだ。ミルクを手に入れるためには更なる苦労が待っているに違いない。

   あとでわかった事なのだけど、−そう、わかってみればなんて事はない−お姉さんは「Un pain?」(ひとつでいいですか?)と言っていたのだ。「un」は「アン、ドゥー、トロワ」の「アン」。つまり「ひとつ」という意味なのだが、発音が日本語の「餡」と非常に似ているのだ。この「アン」と「パン」が引っ付いてしまったので、こんな事態になってしまったのだ。ボクが勝手に拡大解釈していただけだったのだ。全くやれやれだ。

 どうも日本人にはない感覚なのだが、ヨーロッパでは必ず単数だろうが複数だろうが、きちんと言葉にするようなのだ。日本では単数ならわざわざ言葉にしない。例えば、電車の切符を買うときだって、日本なら「○○まで」で済むが、ヨーロッパでは「○○まで一人分」となるわけだ。

 これだけ苦労をしながらも、未だにボクはシャルル・ド・ゴール広場(凱旋門のあるパリの中心部)にさえ辿り着くことが出来ないでいる。


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